「体操の糸」を紐解く
―我が国の体操事情―

佐原龍誌(多摩美術大学)

〔概要〕

 体操とは、その文字が示すように「体」と「操る」という語が合わされてできた言葉である.しかし、これだけでは体を「誰が」あるいは「何が」操るのか、といった主語が見当らない.
そこで、本発表のテーマを「体操の糸」を紐解く、としたのはそうした我々の身体を操る主体は「誰か」「何か」を問うことによって、今後の「体操像」をおぼろげながらでも描けるのではないか、といった淡い期待を込めた試みなのである.
そのためには、まず体操の歴史的変遷過程をたどることで、そこに見え隠れする「一本の糸」を手繰り寄せてみれば、何かが見えてくるのかもしれない.それとも「体操の糸」は絡まっているのかもしれない.であるならば、時間をかけ根気よくほどいていくしかない.そして「一本の糸」にすれば良い.そうした思いの丈が少しでも伝われば、という願いから若干の提案も試みてみた.以下のような流れで話を進めていきたいと思っている.

・はじめに(問題の設定) − 改めて体操を問うことの意味と意義について
・我が国における体操の系譜 − 体操以前から現代までの流れを社会的背景との関わりから眺めていきたい
・グーツムーツの出発点 − 我が国の意図的、体系的な体操の原点は「ドイツ体操」であり、そのはじまりはグーツムーツにたどりつく.しかも、彼は「古代ギリシア」を端緒としながら、その時代に行われていたギムナスティケーを反映した形で、ギムナスティークを形成する.古代ギリシア世界に思いを馳せることによって、そこに見えてくる古くて新しい問題をカロス(美)とアガトス(善)の思想を手がかりとして眺めてみたいと思っている.
・まとめ − 現代という時代感覚から、何が求められているのかを問いつつ、「発想の転換」を軸に「主体操」の提案を試みるものである.

1. はじめに

 ここで取り扱う「体操の糸」を紐解くというタイトルには、主語がない.「誰が」あるいは「何が」その糸を紐解くのか、といった主語が見当たらない.そればかりか、「何のために」または「どのようにして」紐解くのか、という方法や問題意識も見えてはこない.
 本来、研究上におけるタイトルは出来るだけ分かり易く、簡潔明瞭であることが求められているところであろう.全体の論旨が、ある程度読み取れて、明確な問いかけが設定されていることが必要である.
 ところが、ここでのタイトルには、はじめからそれはない.むしろ、あるかどうかも分からない「糸」を紐解く、という一見して抽象論とも思える表題設定になってしまった.それには、それなりの訳がある.少し自己矛盾的な言い方になってしまったが、要は「体操」そのものが、一口には語れない程の幅広さと深さとを含みこんだ身体運動文化だと思われるからである.したがって、どのような視点に立って、問題解決の方途を見い出せばよいのかを示すことは、そう簡単なことではない.
 体操は、各種のスポーツを行う場合の前後や、仕事の合間をぬってのリラクゼーションなどのために、普通に用いられるものである.背伸びをしたり、屈伸をしたりして身体の緊張をほぐしたりする.多少の知識があれば、身体各部位のストレッチや柔軟体操、ラジオ体操などを組み合わせて行うこともあるだろう.一定の姿勢を長く続けていれば、身体も強張ってしまう.
 時には、目覚めて身体を動かす(体操)ことで、その日の調子はどうかな、などと自らの身体に問いかけることもあるだろう.年齢を重ねるごとに、その頻度は確実に増える.我々はこの世に生まれ、成長し、やがてはその幕を閉じるまでひとつの身体と共に生き、対話(「体話」)しているのだから当然のことである.きわめて、日常的な行為なのであり、それは健康のバロメーターといってもよい.
 ところで体操という意味を、ひとまず「身体各部位の均斉な発育、健康の増進、体力の鍛錬などを目的として行う一定の規則正しい運動」(広辞苑)として見ると、改めてその幅の広さに驚かされてしまう.例えば、「身体各部位の均斉な発育」とは、具体的に質・量ともどれ位なのか.同じように、「一定の規則正しい運動」とは何を以って規則正しいと言えるのであろうか、といった疑問である.具体的なイメージが湧かない、と言った方が分かりやすいかもしれないが、要はそうした幅の広さと驚きなのである.
 体操は、我々の日常生活にこれ程入り込み、身近な存在であるにも関わらず、共通言語としてのその意味や意義は漠然としている、と思えるのは筆者だけの錯覚なのであろうか.少なくとも、スポーツや体操の分野で実践のない理論はありえないし、同様にまた、理論のない実践もありえないのである.
 つまり、ここでのタイトル「『体操の糸』を紐解く」とは、ボーダレスとかグローバリゼーションなどと声高に叫ばれるようになった現代社会にあって、改めて体操の意味と意義を歴史的な観点から問いかけようとする試みなのである.我が国における体操の流れを紐解きつつ、その糸はどこに結びつき、またどこへ連なって行くのであろうか、など若干の提言を試みながら、その方途をたぐり寄せてみたいと思っている. 


2.我が国における体操の系譜

 「体操の糸」を紐解くためには、まず、その歴史的背景や変遷過程を理解しておく必要があろう.そもそも文化の形成は、それ独自に成立、発展するものではない.むしろ、その時代の政治や経済、社会、教育等々との関わりの中で、育まれるものであろう.
 しかも、ここでいう「糸」を紐解くとは、一本の線として培われた体操の系譜を読み取ることで、「今、何が問題であり」「何が課題なのか」を浮き彫りにしようとする試みなのである.「歴史は繰り返される」と言うが、その流れを現代という視点に立って、改めて分析、検討することによって、やがて来る未来の「体操像」をおぼろげながら描けるのではないか、という淡い期待もある.
 つまり、そうした道筋の中で、文化としての体操を縦軸に、歴史的変遷過程を横軸にしながら、その接点を見いだすことによって、問題点や課題、ひいては解決の糸口を模索したいと思っている.

1) 我が国「体操」の前史―若干の覚書として一
 体操は、スポーツと同様に、日本独得の身体運動文化というものではない.それは、諸外国において誕生、醸成されたものが我が国に紹介、移入されたのであり、いわば「外来文化」なのである.
 この体操が、我が国に入って来たのは、二百年以上も続いた鎖国を解き、幕藩封建制社会が崩壊した明治期以降のことであった.とは言え、それまでに、今日言われるような「体操的行為」がまったく無かった訳ではない.
 何故かと言えば、我が国には、古来(「古事記」や「日本書紀」の時代)より行われていた相撲や蹴鞠、あるいは後に武道へとつながるような柔術や剣術などの独自な身体運動文化が存在していたし、こうした運動と関わって「体操的行為」も行われていたのではあるまいか、と想像、もしくは推測できるからである.
 例えば、相撲や剣術などの稽古の際、あるいは試合を行う場合には、実践者達は事前に身体をほぐし動きやすい状態を作っていたに違いない.今日の準備体操に相当するような運動を、むしろ積極的に取り入れていたのではあるまいか.怪我や事故防止のためにも行われていたことは、容易に想像できる.それが、相撲であれば、お互いに対戦する前に「四股」を踏み、ぶつかり合うための準備をする.もちろん、「四股」には五穀豊穣を願い大地を踏み固める(玉木正之、日本人とスポーツ、NHK出版、2001年)などの理由もあるが、その行為自体は準備体操と言っても良いであろう.同様に、柔術における受身の稽古や剣術の素振りなども、その範疇に属する行為であるように思われる.
 要するに、当時としてみると体操的行為はあったが、言語的には「体操」なる言葉はまだ存在していなかったと言うことである.さらには、明確な目的を持ち、意図的、体系的な実践としての「体操」を諸外国より移入するのは、我が国が近代化を推し進めようと意識した幕末から明治期にかけてのことであった.それについて、木村 毅はその著書「日本スポーツ文化史」(ベースボール・マガジン社、1978年)の中で次のように述べている.「天保年間、長崎の町年寄の高島四郎大夫がナポレオン兵法を輸入し、また安政年間には勝海舟が海軍伝習所を開くに及び、基礎体育として西洋式の体操を多少課した」とある.つまり、日本における体操は、どうも軍隊の集団的教育のひとつとして始まったと言えそうだ.

2) 体操の伝播と普及―明治期以降―
 健康や体力の保持増進を目的とした、いわゆる「体操」が我が国に入ってきたのは、すでに述べたように、幕末から明治期にかけてのことであった.こうした意図的、体系的な身体運動を、当初から「体操」と言っていた訳ではない.「練体法」とか「体術」あるいは、「体学」、場合によっては「物体学」などの名称が使われていた.
 もちろん、このような用語はドイツ語のGymnastik,英語のGymnasticsおよびオランダ語のGymnastiek,フランス語のGymnastiqueなどの原語を訳したものである.中には、「身体ヲ健康ニスル稽古」とか、さらには「角力」などと言う、明らかに誤訳と思えるような言葉まで使われていたらしい(岸野雄三、体育史、大修館、1973年).当時の混乱ぶりが窺がえる一幕でもあろう.
 要は、言語と実態が日本人の間で、共通認識として位置付いてはいなかった、ということを表している.スポーツという語にも同じことが言えるであろう.それだけ日本は、早急な近代化を計らねばならない程の弱小国であったのかも知れない.それは、国をあげての政策の中に見ることができる.
 つまり、すでに近代化を成し遂げた欧米列強諸国に対して、我が国のとった政策は、まず、その国々に「追いつき 追い越せ」という強い意志としての「富国強兵政策」であり、軍事面での充実を図ることであった.さらには、欧米列強に比べ脆弱な経済活動に対して、生産力を高めるために、新しい知識と科学技術を導入しつつ「殖産興業政策」が打ち出された.
 一方では、国民皆兵を目的とする「徴兵令」を定め、他方、明治政府自らが経営に参加する官営工場など、製紙・紡績業に力を注いだ.そして、こうした政策を推進するためには、どうしても「教育」の力が不可欠であるとして、時の政府はフランスを模倣した近代学校教育制度を導入するのである.
 それが、いわゆる「学制」であり、国民皆学を目的に施行された制度でもあった.日本の近代教育はここから始まる.明治五(1872)年のことであった.「体操」も、この「学制」公布後、我が国の近代化の歴史の中で展開されることになる.
 したがって、我が国の「体操」は学校中心、あるいは学生中心の教育の場で、先の政策と関わって、きわめて意図的かつ計画的に実施されたところに、その特徴がある.そうした状況の中にあって、はじめ教科名称としては「体術」であったが、これはすぐに翌明治六(1873)年には改訂され、「体操」に変更されている.そして、この教科名「体操」は、昭和十六(1941)年に「国民学校令」が公布されるまでの、ほぼ七十年間にわたって学校教育で使用されることになる.
 そして、その「体操」の学習内容はと言えば、身体の健康や発育発達、体力の保持増進を主たる目的として実施された.当時、持ち込まれた体操は、欧米諸国において盛んに行われていたドイツ体育の父ともいわれたF・L・ヤーンの創った、いわゆるドイツ体操であった.内容は、徒手体操を中心として、その他こん棒とか縄、あるいは輪、球などの用具を使った手具体操がそれにあたる.
 その後、文部省はアメリカからG・A・リーランドを招き、「体操伝習所」を設立する.ここで専門的な体操を学ぶと共に、教員養成の充実を図ったのである.その結果、全国の各学校では様ざまな体操が持ち込まれ、実践された.P・H・リングによるスウェーデン体操もそのひとつで、これは形式体操とか医療体操とも呼ばれ、さかんに取り入れられた.
 また、「気をつけ!」だの「全体―前へ進め!」などの号令によって行われる集団歩行訓練、あるいは隊列運動に特徴をもつ「兵式体操」なども導入され、きわめて軍事色の強い教科内容に徐々に替わっていったのもこの頃である.間もなく、この「兵式体操」は「教練」へと引き継がれるが、その意図は常に欧米列強の国々を見据えた、日本人の体格、体力の増強に他ならなかった.欧米人に比べ劣っている日本人の身体を、何とか欧米人並にというのがそのねらいであった.まさに、国策としての身体作りと言えよう.
 こうして、「富国強兵政策」は確実に学校教育の中に浸透しながら、昭和十六(1941)年に「国民学校令」が公布されるや否や、長らく続いた「体操」という教科名は、完全に軍事訓練的意味を持つ「体練」へと変質するのである.
 体練は、精神面で「忠君愛国」「皇国民」意識をしみ込ませ、内容としては手りゅう弾投げや土運搬などの軍事訓練的様相を呈し、軍人としての身体を鍛えあげていくというものであった.「自分の身体であって、自分の身体ではない」とは、この時代を象徴するような言葉だが、人びとは自分の身体でありながら、自らの身体の主(あるじ)にはなり得ていなかったのである.まさに、お国のための身体作り、戦争に勝つための身体作りに他ならなかった(佐原龍誌、「体育がきらい!」って言ってもいいよ、けやき出版、1998年).
 体操は、こうした時代にあって、移入以後ずっと国策的手段として利用され続けてきた.あたかも、天上から吊るされた糸(「意図」)に操られながら、揺れ動く姿そのものといえる.

3) 戦後における体操の役割と位置付け
昭和二十(1945)年8月15日、第二次世界大戦は多大な犠牲と深い痕跡を残し、日本の無条件降伏をもって終結された.その結果、我が国の行く道を定める憲法もまた、新しい局面を迎えることになる.
 旧憲法と新憲法の相違は、一口に言って「権力国家から人権国家へと国家存立の原理の転換を内包していた」(阿部照哉「戦後における人権の展開」基本的人権の歴史、有斐閣新書、有斐閣出版、1979年)という点であったろう.そして、新憲法に込められた願いは、主にその前文に示された国民主権、平和主義および基本的人権の尊重という三つの柱によって特徴付けられている.いわゆる、民主主義国家への転換であった.
 とりわけ、教育はアメリカの二度に及ぶ教育使節団報告書を下にして、経験主義教育を中心とするカリキュラム編成が行われ、学校教育制度も現行の6・3・3・4制となった.それに伴って、戦前まで行われていた、我われの身体の健康や体力の保持増進に関わる体操の位置付けも一変する.
 つまり、教育における教科名称は、それまでの体操からPhysical education(身体の教育)を体育として、スポーツを中心教材とする教科内容へと移り変わる.この中で、体操はと言えば、スポーツと同様にひとつの運動教材として取り扱われることになる.明治・大正・昭和にかけてのほぼ七十年間に渡って受け継がれ、冠されてきた「体操」という教科名称はこうして失われた.
 戦前の体操は、その中にスポーツを取り込みながら身体の健康と体力の保持増進を目的としていた.それは、良き軍人として、あるいは良き母親としての体格、体力作りであり、欧米列強諸国に「追いつき 追い越す」ためのそれに他ならなかった.そうした意味において、体操の目的論は(その良し悪しは別として)、きわめて明確であったと言えるであろう.
 しかし、戦後になっての体操は、体育という教科の枠組みの中で、ひとつの運動教材となりその目的論は、ややもすると見えにくくなった感を抱かせる.スポーツを行うための副次的、あるいはそれの基礎的運動として位置付けられていたのではないのか、とさえ思えるくらいである.戦前の体操に対する、反動があったのかもしれない.それとも、国家的意図(糸)が、強く働いていたことへの反省であったのかもしれない.いずれにせよ、民主主義国家を目指す我が国には、馴染まないのではないのか、という意志が働いていたことは確かなようだ.そして、その後スポーツ教材を中心とした学習内容に移り変わっていったことは周知の通りである.
 翻って、こうした体操を取り巻く、戦後日本の社会状況を概観してみようと思う.それは、教育とはいえ、もちろんそれ独自に存立するものではない.様ざまな社会の移り変わりと動向に影響、あるいは場合によっては翻弄されつつ存立するものであるからだ.そこで、戦後日本の歩んできた道を眺めると、次のような流れを指摘することによって特徴付けられるのではないか、と考えられる.
 まず第一は、1950年代から70年代にかけてのわずか20数年間に、我が国の経済状況は飛躍的な伸びを示した.経済成長の指標のひとつである国民総生産(GNP)は、この間、約7〜8倍にも達した(宮崎 勇、日本経済図説、岩波新書、岩波書店、1989年).世界に類例のない速さであり、奇跡的な経済復興であったと言える.いわゆる、「高度経済成長時代」である.
 この時に、体操に求められていたことは何か、といえば、それは戦前に見られたような近代化を目指した政策を達成するための、いわば国策としての身体作りに似て、この流れは、戦後においても同様な期待がかけられていた、と言えるであろう.つまり、近代国家としての経済力を支える、「企業戦士」としての身体作りではなかったか、ということである.
 第二には、こうした「高度経済成長」を梃子としながら、一気に浸透していった「情報化社会」の到来である.新聞や雑誌はもちろんのこと、ラジオ、テレビの情報機器に加え近年のパソコンや携帯電話の普及と拡大は、我われの生活をも一変させた.世界の情報は、リアルタイムで入手可能となり、むしろ流れ出る情報の氾濫で、情報過多による情報不足現象を引き起こしてしまっているのではないか、という危惧さえ抱かせる.
 しかも、近代文明における科学技術の発展は、皮肉にも我われの身体活動の省力化を招くことになってしまった.この情報化社会にあって、省力化による身体活動の必要性と健康や体力の危機が声高に叫ばれるようになった.このような情報は、「健康ブーム」や「体力作りブーム」あるいは「ダイエット、メタボリック」などの流行語の火付け役ともなった、と言えるかもしれない.
 そうした背景の中で体操は、あたかも諸ブームの対症療法として「ジャズ体操」や「エアロビクス」などに注目が集まり、それは危機感から生じた商品化された存在であるかのように受け止められる.つまり、体操は商業主義と隣り合わせの形で進展し、企業における商品化された品物として、我われの前に提供されてきたように思われる.いわゆる、利益を生みだす商品としての体操は、情報化社会を土台にしながら、確実に商業主義の流れに呑み込まれているような錯覚すら感じさせるのである.
 そして第三には、急速に進みつつある「高齢化社会」の訪れである.近年の統計によれば、我が国の人口動態は、いわゆる65歳以上の高齢者は全体の23.8%で、ほぼ4人に1人となり、ますます増加傾向を示している.それとは反対に、15歳未満の人口比率は、わずか15%に留まっており、まさに「少子高齢化社会」を物語っている(岡崎陽一他、21世紀高齢社会の基礎知識―少子高齢社会とは−、中央法規出版、2002年)と言えそうだ.ピラミッド構造の人口比率は崩れ、逆三角形的年齢分布は、これまでの制度や仕組みを大きく見直さなければならない局面に立ちいたっている、と言えるであろう.人口も経済もこれまで右肩上がりを、前提もしくは想定して考えられてきただけに、その歪みは大きい.すでに、「年金問題」や「小、中学校の統廃合問題」などに表れている.そのつけは、若年層への負担を強いる形となって表出しているように思われる.
 こうした状況にあって、健康や体力の保持増進は、経済的には一方で「医療費の削減」などに絡みつつ、他方、定年制の引き上げとも関わって進んでいくに違いない.体操は、今後ますますその必要性が叫ばれ、求められる存在となるであろう.高齢者向けの体操の普及と拡大が予測されるし、それに伴ったきめ細やかな対応が期待されるはずである.
 さて、ここまでは戦後日本の歩んできた社会状況の側面を、筆者なりの視点から足早ではあるが眺めてきたつもりである.もちろん、戦後の歩みを充分に特徴付けてまとめている訳ではない.ただその視点とは、これまで述べた三つの特徴的な流れが、共に「高度かつ急速」であった、ということである.複雑さと素早さを内包している、ということでもある.少なくとも、こうした状況は先進諸国において、前例のない速さであることは確かなようだ.
 これまで、我が国の近代化は、欧米列強諸国というお手本があり、それに追従することによって成し遂げられてきた、と言えるであろう.しかし、「高度かつ急速」な今日的な諸状況は、我が国だけが他の先進諸国に先んじて遭遇している問題なのである.まず、そうした認識を持つことが重要であろう.その上で、我われは我われの手で、その解決の糸口を見い出さなければならない.何かを生み出し、他国に発信できる手がかりを提供しなければならないし、期待もされているであろう.そのためにも、受信型ではない発信型の見方や考え方、あるいは装置を考え出さなければならない.
 こうした状況にあって、これまで体操はすでに述べたように「企業戦士」として、あるいは「商業主義の品物」「医療費削減の対症療法」として、その役割を担ってきた.言わば、「体操の手段化」の中で、我われの身体は「誰か」や「何か」によって操られてきた歴史であった、と言っても過言ではないであろう.いや、手段化されることや利用されることを問題にしている訳ではない.その手段化や利用の仕方、され方を言っているのである.そのためには誰かや何かではない、「主体者としての体操論」の構築が必要である、ということを言いたいのである.主体者としての身体、「身体の自我、自立」の確立が必要であろう、と考えるのである.
 いささか抽象的な言い回しになってしまったが、要はこれまでの体操が時代の中で、翻弄され揺れ動くのは、体操の側からの目的論、目標論が見えにくくなっていたからではないのか、と思えるからである.それゆえに、手段化と利用が先行して出てくるのではないだろうか.体系的な体操論の展開が求められる所以である.
 これまでの体操は、外来文化として諸外国から輸入、展開されてきたものである.もう、そろそろ日本発信型の体操が生まれて来て良いように思う.表題とした「『体操の糸』を紐解く」とは、これまでの体操が、誰かや何かのための手段としてであったが、そうした発想から、自分、自らによって身体を操ることのできる、自覚的体操論へと転換することを意味している.それはまさに、我われひとりひとりの人生観とも関わる、総体としての体操論を展開することでもあり、さらなる広がりと深化とが期待されている、と言えるであろう.
 ここでは、我が国における体操の歴史を概観してきた.ある言葉が存在する.それは、「愚者は体験によって学び 賢者は歴史によって学ぶ」という言葉である.次に取り上げるグーツムーツは、まさに歴史に学びつつ体験からも学んだ人であり、しかも、経験と理論を両立しようと試みた先駆者でもあった(グーツムーツ「青少年の体育」成田十次郎訳、明治図書出版、1979年).


3.グーツムーツの出発点

 我が国の体操の経緯については、すでに述べた通りであるが、具体的には、当時、欧米諸国で広く行われていたF・L・ヤーンのドイツ体操を取り入れたのである.しかし、ヤーンも意図的、体系的な体操を考案する上で参考にしていたのは、同じくドイツのグーツムーツ(1759−1839)の体操論であった.
 今日、「近代体育の父」と言われるグーツムーツは、ルソーの自然主義教育に影響を受けた「汎愛学校」の体育教師であった.汎愛学校は、ルネッサンス(文芸復興)の流れを受け創設された学校で、その教育目的は「身体の養育と精神の陶冶」であり、とりわけ体育教育に重きが置かれていた.ここで、グーツムーツは意図的、体系的な体操を考案したのである.それが、いわゆるギムナスティーク(Gymnastik)であった(岸野雄三ほか「体育・スポーツ人物思想史」不昧堂、1979年).
 しかし、このギムナスティークも元をたどれば、古代ギリシアにおいて行われていたギムナスティケー(Gymnastike)に由来する.ギムナスティケーとは、ギムナス(Gymnas)という「裸」を意味する語とテクネー(Techne)「技術」を意味する語が合成された言葉で、今日では広義に「体育」、あるいは「体操」として捉えられている.古代ギリシア、とりわけ都市国家アテネでは、この体育と音楽(国語や文法を含む)が青少年の教育として位置付けられていた.
 そして、このギムナスティケーでは、裸で種々の運動が行われたと言う.それは、青少年の体格や体力を指導者が見ることによって、健康状態を把握する、という意味をもっていたからである(水野忠文、体育思想史序説、世界書院、1967年).しかも、彼ら古代ギリシア人達は人類で初めて「理想の美」について考えた民族でもあった.それも、「美」を男性の肉体に見い出したのである.太っていても、痩せていてもいけないとする、中肉中背の、いわば中庸としての均斉のとれた男性こそが、「美の極致」であることを追求した民族であった.
 さらに、古代ギリシアにおける理想的な生き方は、こうした美の追求にこそ見い出せるものであり、真のギリシア人の生き方そのものだとする思想を形成したのである.それこそが、美(Kalos)と善(Agathos)を意味する言葉が重なってできたカロカガティア(Kalokagathia)という思想なのである.すなわち、「美にして善なる思想」こそがギリシア人の求めた理想的な最高の生き方そのものであったことが窺がえる.
 こうしたギリシア世界にあって、古代オリンピア祭をはじめとして、ネメア祭、イストミア祭、ピティア祭などの、いわゆる四大祭典競技会は、確かに宗教的祭礼行事でありながら、実のところ各都市国家(ポリス)を代表する美の持ち主達が、選手として参加するという側面も有していたことになる.しかも、徒競走や槍投げ、幅跳び、ボクシング、レスリングなどの競技種目で競い合うということは、一種の「美の競演」であり、優勝者は最も美しいギリシア人であることの証明でもあった.
 確かに、それぞれの祭典競技会の優勝賞品は、オリーブの葉や月桂樹で作られた冠であった.がしかし、同時に与えられる栄誉は、母国にとっての誇りであったに違いない.だからこそ、優勝者が母国の都市国家に戻れば、その栄誉を称え記念として彫刻やレリーフ(浮き彫り)、あるいは壷絵や壁画などのモチーフとなって描かれるのである.永く賞賛の的となるように、芸術家は芸術家同士で競い合いによって、その腕を揮うのである.そこに、すばらしい作品を見い出すことができる.
 現代社会になぞらえて考えてみれば、優勝者を記念して写真などを撮るのは当たり前だが、古代同様に彫刻やレリーフ、場合によっては建物などを建ててしまうかもしれない.古代も現代も、同じような感覚で行われていたように思う.
 古代ギリシアにおける彫刻やレリーフ、壷絵などのおびただしい程の作品群は、こうして生まれた.芸術家が先か、選手が先かはこの場合、問題とはしない.ただ、人類最初の芸術家とされるフェイディアスは、オリンピアの地に工房を構え、作品を創作していたと言う.想像ながら、選手達の肉体の美を目の当たりにしていたに違いない.
 古代ギリシアの彫刻やレリーフに刻まれた男性の裸体像は、よく見るとほとんどが同じような中肉中背の均斉のとれた男の姿として描かれている.顔をかくして見てみると、どれがどれだかわからない程、似ているのである.それだけ、同じように描かれていることに、気付かされてしまう.人体における、黄金比率にのっとたカロス(Kalos)とアガトス(Agathos)の思想をここに垣間見ることができるのである.
 
 さて、グーツムーツがこうした古代ギリシア世界から、学ぼうとしたことは何であったのだろうか.それは、取りも直さず青少年の成長にとって、身体の教育は欠くことのできない重要な営みであり、身体美を獲得するということは日々の努力と忍耐を必要とし、内面性をも含みこんだ教育ではなかっただろうか.古代ギリシアのギムナスティケーに学びつつ、グーツムーツの時代の感覚を持ち込みながら、意図的、体系化されたのが、彼の体操論であり、ギムナスティークなのである.
 こう考えると、おぼろげながらでも、ひとつの体操像が見えてくるように思われるのだ.つまり、体操は我われの身体に関わる、(もちろん内面性も含めた総体としての身体)健康や体力の保持増進を主たる目的としつつ、「身体美」と「健康美」を求めて止まない、様ざまな方法を駆使した集合体なのである、と.
 古代ギリシアに見られた、カロカガティア(Kalokagathia)の思想の復権こそが、体操文化の継承と発展であり、その方法は時代感覚を的確に吸収することによって、成立するものであると考えられる.すなわち、「体操ルネッサンス」を声高に発信することであろう.
 

4.まとめにかえて

 そもそも体操は、はじめから教育の枠組みの中で誕生し、成育してきたものである.スポーツが、楽しみ、気晴らし、あるいは娯楽といった原意による非日常的空間での営みであるのに対して、体操はきわめて日常的空間で行われるものであろう(もちろん体操の種目による違いはあるが).何故なら、我われの身体の健康や体力の保持増進は、絶え間ない生命との対話(体話)に他ならないからである.日々の習慣的実践が、より効果を生むし、その積み上げが前提となっている.こと、健康や体力を目的としている場合は、体操の日常性が強調されてしかるべきであろう.
 さて、本稿では体操の歴史的変遷過程を辿りながら、その意味や意義などについて概観してきた.歴史を学ぶということは、単に知識のための知識を記憶するだけではない.むしろ、現代を生きる我われが平和で、より良い生活を営むために、先人から様ざまなヒントや手がかりを学ぶという行為である.しかも、未来に向かって、さらなる発展を期するための糸口を見い出すことでもあろう.
 そうした意味で、体操の歴史を紐解けば、形は違っていても古代ギリシアの昔から今日まで、我われの身体の健康や体力の保持増進に、常に関わって展開されてきた、ということであった.仮にその揺らぎがあるとすれば、残念ながら我が国における体操は、国家や企業、あるいは商業主義の中に取り込まれながら、「誰か」や「何か」という他の力によって、あたかも操り人形のように操られたという歴史を歩んできたことであろう.
 もうそろそろ、主体的に自らの身体としての心と身体を総体とした、自我、自立の体操観、言うなれば、自らが自らをもって由とする「身体の自我、自立」を目指した体操の有り方が問われるべきであろう(「主体操」).ここでの表題「『体操の糸』を紐解く」とは、実のところその主語や目的意識が、他の力によって操られていた身体を、主体的、自立的に我がものとするという「発想の転換」を意図したことであった.
 確かに、老化は身体的な老いだけを言うのではない.精神的意欲や気力が、むしろ大きなウェィトを占めている場合が多い.心からリフレッシュできる、身近で楽しい体操を提供する必要もあろう.これまでの体操は、ともすると外来文化と言いつつ、実は諸外国の体操を吸収すれば、ただそれだけで事足りたかのような錯覚を抱いていたのではないだろうか.進む時代の中で、そろそろ発信型の体操を考えてみては如何だろうか.
 もし仮に、文化が異文化間の融合によって再構築されるとするならば、日本独特の動きを持った体操があってもいい.我が国には、たくさんの祭りがあり、踊りもある.歌舞伎もあれば能や狂言もある.子どもたちの伝統遊びには、様ざまな身体運動があり、それを手がかりにして、日本独特の「融合体操文化」を考えて見るのも一つかもしれない.それはまさに、「ギムナスティーク(義務ではなく主体的に行う、無理なく楽しめる体操―義務無体操―)」を基礎とした「体操ルネッサンス」「主体操」をこの日本から発信していくことであろう、と考えるのである.

(追記)
 門外漢である筆者が、「体操」について述べることは、いささか大胆すぎたかもしれない.
それゆえ、本論を改めて読み直してみると、抽象的な言い回しや造語、合成語の多いことに気が付く.例えば、「体話」は体操が常に自分の身体との語り合いに尽きる、という思いが強いためかこの文字になってしまった.
 また、「主体操」は自らが主体となった身体運動の楽しみや喜びを体感することから始まり、そのためには多くの人達の喚起を促すような、多彩な実践プログラムを用意する必要がある.これまでの体操は、教育という枠組みから始まった為か、ややもすると教える側の論理によって、ひとつの鋳型化された側面が強調されてきたように思う.そうではなく、「主体操」は、実践者の日常的な、より身近なところから興味の持てる運動を考えてみることだと思う.つまり、楽しさや喜びを手段、方法として自覚的な健康、体力の保持増進を目的としたプログラムの提案である.そのイメージは、次のような楽しみや喜びを体感することが必要であろうと思う.

* 身体を動かすことの楽しさと喜び
* 身体が柔らかくなっていくことの楽しさと喜び
* 汗をかいて清々しさを感じることの楽しさと喜び
* 仲間と共にいっしょになって身体を動かすことの楽しさと喜び
* 新たな動きを発見することの楽しさと喜び
* 音楽やリズムに合わせて身体を動かすことの楽しさと喜び
* いろいろな道具を使って身体を動かすことの楽しさと喜び
* 自分の身体の重さや軽さを感じることのできる楽しさと喜び
* 様ざまな環境の中で身体を動かすことの楽しさと喜び
* 体感するという感性から生み出される創造的な楽しさと喜び
* 何歳になっても身体を動かすことのできる楽しさと喜び

など多方面に渡っている.年齢、性差、環境、道具、身体運動の質と量など幅も広い.そうした工夫が「主体操」を支える原動力であり、次へとつながるのである.そうした思いが、主体性と体操とを結びつけた「主体操」という合成語になってしまった.
 その他にも、説明しなければならない造語や合成語もある.が、それは今後の「体操学会」で、わずかでも問題提起となれば、筆者としてこれ程の喜びはない.その思いを込めて、このような機会を与えて頂いた会員の皆様に感謝しつつ、敢えて長々しい「追記」を書かせていただいた.

(引用参考文献)
* 編者 新村出(1955)広辞苑 第3版.岩波書店:東京.
* 玉木正之(2001)日本人とスポーツ.NHK出版:東京.
* 長谷川明(1993)相撲の誕生.新潮社:東京.
* 木村毅(1978)日本スポーツ文化史.ベースボール・マガジン社:東京.
* 岸野雄三(1973)体育史.大修館:東京.
* 岸野雄三・成田十次郎・山本徳郎・稲垣正浩(1979)体育・スポーツ人物思想史.不昧堂:東京.
* 岸野雄三(1959)体育の文化史.不昧堂:東京.
* 佐藤友久(1972)現代体操の構成と実践.道和書院:東京.
* 木村吉次(1975)日本近代体育史想の形成.杏林書院:東京.
* 佐原龍誌(1998)「体育がきらい!」って言ってもいいよ.けやき出版:東京.
* 阿部照哉・種谷春洋・佐藤幸治・中村睦男・浦部法穂・初宿正典(1979)基本的人権の歴史「戦後における人権の展開」.有斐閣:東京.
* 水野忠文・木下秀明・渡辺融・木村吉次(1966)体育史概説.杏林書院:東京.
* 水野忠文(1967)体育史想史序説.世界書院:東京.
* 木下秀明(1971)日本体育史研究序説.不昧堂:東京.
* 花野豊子(1984)日本におけるスポーツ教材の導入過程.岸野雄三編 体育史講義.大修館:東京.
* 宮崎勇(1989)日本経済図説.岩波書店:東京.
* 橋本寿朗(1995)戦後の日本経済.岩波書店:東京.
* 岡崎陽一・島村史郎・山口喜一(2002)21世紀高齢社会の基礎知識.中央法規:東京.
* グーツムーツ:成田十次郎訳(1979)青少年の体育.明治図書出版:東京.
* 須田柳治・太田雅夫(1998)ギムナスティックを知るために.順天堂大学スポーツ健康科学部ギムナスティック研究室:千葉.
* 松本芳明(1991)体操一般.稲垣正浩編 とび箱ってだれが考えたの?.大修館:東京.
* 太田秀通(1970)スパルタとアテネ.岩波書店:東京.
* 村川堅太郎(1963)オリンピア.中央公論社:東京.
* 周藤芳幸(2004)物語古代ギリシア人の歴史.光文社:東京.